2009.05.03
忌野清志郎さんが亡くなりました。58歳は若いです。
私たちと比較して10年先輩になります。“きのうは、車の中で寝た~”なんて誰もが当時ラジオで聞いていました。その後ずーと芸能活動を続けられるなんて凄いことです。継続できる人はそれほど多くないですよね。
癌だったようです。私がおじさんとしたっていた方がいました。父と一緒に仕事をしていたWさんです。私は、Wさんのことを“おじさん”と呼び、Wさんも私には自分のことを“おじさんはね”と呼ぶ仲です。丁度約7年ほど前にゴールデンウイークあけに亡くなりました。
2月には父とゴルフをしようと言ってました。発病してわずかな間に普段も痩せていたWさんは見違えるほど痩せてしまいました。誰だかわからないようだったおじさんの足を私の母とおばさんがさすっていました。その時はじめて癌の恐ろしさを知りました。その後、一年後父も心不全で亡くなりました
おじさんは九州は鹿児島の出身で男でした。無駄なことは言わないけれどはっきりとした発言には人に流されないしんの強さを感じました。九州男児というのはまさにそんなことかもしれません。今の言葉でいえば“ぶれない”と言った感じでした。
主人の友人には脳腫瘍で亡くなったK君がいます。大学4年ぐらい時にはじめて病気がわかりました。都立駒込病院に最初に入院した時、親友だけに病名が知らされ母親と3人で見舞いに行きました。帰りのタクシーの中でお母様が“よくKが頭が痛い”と朝言っていた。ずる休みしたいのかと注意してしまった早く気がついてあげればと後悔されていました。
彼が亡くなったのは平成元年になってからです。主人は今も年に2度、3度不定期にお墓参りに行きます。どうもつらいことや嫌なことがあった時にK君にエネルギーをもらいに行くようです。彼はすこし遅れて卒業しました。そして最後は歩けなくなったようです。
東京の下町出身の友人思いの性格はとても印象に残り今でもKが居てくれたらなーっと思うそうです。“江戸っ子”でした。
死はとても怖いものです。だれにも必ず来るわりには、無計画にやってきます。平均寿命の1/3程度で終えた人生はいかほどのものだったのでしょう。最後に歯科医になってほんの数人の患者さんを診たら終わってしまいました。お葬式の日の霧雨で涙を隠しました
でも歯医者になってよかったね。主人はゴールデンウイークの最後の日にお墓参りに行こうと思っているようです。人は強くありません。でも墓石を洗いながら色々な話をするそうです。返事はないけど相談します。
もう一人忘れられない人物がいます。大学の前に会った小さな定食屋さんMです。Mは今はありません。当時大学院生と若い教員の夕食の場でした。山形出身のおばさんは“とんぶり”や“はたはた寿司”などめづらしい山形の物産がありました。たしか600円でした。最後にコーヒーか日本酒の冷までサービスでくれました。
主人には“冷はやめな。冷飲んでた人は皆死んじゃったよ”ドッキとするようなことでした。大学院生だった主人は友人に御馳走になる以外お酒を飲むことはできませんでした。そのMのおばさんが子宮癌になりました。
ある日曜日当時大学院生と3人で神奈川県の二宮にあるホスピスに行きました。鶴見駅で集合しました。花屋さんでアレンジメントを購入し電車に乗りました。だれも会話しませんでした。ホスピスが何を意味するかわかっていました。
おばさんはおそらくモルヒネを打たれていたのでしょう。わずかにところどころわかってくれましたが、完全にはわかってくれませんでした。“おばさん。福井とIですよ”涙はでませんでした。
いまでも思い出します。“また来てね。”私は当時一日1000円で暮らしていました。その原資は育英会の奨学金とさらに助けてくれた友人と先輩でした。皆“貸し借りなしだよ”と言ってくれました。皆さんに恩返ししていきます。
ありがたかったです。コーヒーにしてもお酒にしても当時自分の力では飲みにいけませんでした。
今の若者にはわかるでしょうか。いまだに当時の友人とは思いだします。まるで明治維新のようなお金はまったくなかったけど忙しかった。そして夢がありました。習いたかったリンガルブラケット。思い出します。見学できるだけどんなにうれしかったか。
今のアイ矯正歯科はここにルーツがあります。
主人は大学院生、私は助教でした。そんな時から始まりました。
伝えたいことはいっぱいありますが、聞いてくれる耳がありません。
どうすればこのマルチリンガルブラケットを伝えられるか。簡単に習得できることは世の中にどこにもありません。
“若い時の苦労は買ってでもしろ。買っちゃた”これは当時先輩が言ってくれた冗談ですが事実です。
合掌です。暗いことを記載しました。でも皆様があって今があります。今も心の中で本当に生きています。毎日のように思い出します。ありがとうございます。これからも一生思い出します。そして感謝します。忘れません。
生きていることに感謝です。一人で生きてきたわけではない。まだ48歳ですが私には多くの患者さんがいます。ここで死ぬわけにはもちろんいきません。わたしの責任です。いっそう努力します。“今はまだ人生を語らず”です。吉田拓郎です。p/>